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テクノロジー

ヤフーにおける技術獲得の考え方、AI倫理の議論も添えて

Yahoo! JAPAN Advent Calendar 2021の13日目の記事です。

おはようございます、技術戦略本部テクノロジーインテリジェンス室の鎌田篤慎と申します。

ヤフーでは中長期的な視点で新しいテクノロジーを獲得し、サービスに適用することで得た競争優位性をテコに、事業を成長させていくという取り組みがあります。そうした目的のもと、新しいテクノロジーをリサーチし、経営陣が適切なタイミングで適切な意思決定を行えるようなインテリジェンス活動を行っています。

この記事では、私たちのそうしたインテリジェンス活動の一端をご紹介することで、われわれ、ヤフーが捉える未来のインターネットへの布石がどのようなものなのかという話と、この記事をご覧の読者の方々がお勤めの企業において、技術戦略を策定する際のヒントになればと思い筆を取らせていただきます。

インテリジェンス活動って何?

インテリジェンス活動(諜報活動)と聞くと、ちょっと怖そうな印象を抱かれる方も多いかもしれません。もちろん、産業スパイのようなスパイ活動をしている訳ではありません。いわゆる、公開情報を元に市場予測や競合他社の戦略を類推するOSINT※1と呼ばれる活動です。

ヤフーの中で、こうしたインテリジェンス活動は大きく2つあります。市場の新規サービスやトレンド、競合他社の動向やIR情報などを多角的に分析し、ヤフーとしてのアクションを経営に提言するビジネス、マーケットリサーチ系のもの、もう1つが各種研究などのアカデミックな情報、各社の出願特許や論文、求人内容などから新しいテクノロジーの予測、普及に至るまでの将来予想、競合他社の技術戦略などを分析し、経営に提言するテクノロジーリサーチ系のものです。

私はその両方の組織に所属し活動しているので、ビジネスとテクノロジーの両方に一家言あるヤフーの中でも少し珍しい存在かもしれません。ヤフーの技術獲得戦略そのものをご紹介することは、競争優位性を得るという本来の目的から外れてしまうため、この記事ではどのような視点や考え方で技術を選定し、どのように未来を見据えているのかといったテーマで掘り下げていきたいと思います。

注目を集めるテクノロジーとその実態

みなさんが思い描くような新しいテクノロジーの情報は、一体どういったところから得ているでしょうか? IT業界の中で目新しいテクノロジーを知る機会として、ガートナーが毎年発表しているHype Cycleが挙げられると思います。この記事を読み進める上でも、このHype Cycleがどのようなものかを知ると理解が進むと思いますので、まずはこちらから紹介したいと思います。

ガートナー公表の2021年版 Hype Cycle
出典:ガートナー公表の2021年版 Hype Cycle ※2

このHype Cycleは市場での新しいテクノロジーに対する期待値の高さを表すHypeと、テクノロジーやビジネスが普及していく様子を表すS字カーブ理論※3を組み合わせた構造で、実際のテクノロジーの成熟度と市場の期待度の高さとのギャップを表現しています。

Hype Cycleの構造
図1:Hype Cycleの構造

こうして捉えると、世の中で注目を集めているテクノロジーとしてHype Cycleにプロットされたものは、実際の状況と市場の期待との間に大きなギャップが存在していることがご理解いただけると思います。ここ数年で普及したのAI(人工知能)ブームしかり、実態と乖離した「過度な期待」というものは技術が市場に普及する前に発生することが大半です。

そして、このHype Cycleにプロットされている各技術はそれが実用化されるまでにかかると予想される年数も点の形や色で表現されています。先に挙げた2021年版のHype Cycleで言えば、3つのトレンドのうち「信頼を構築する」で取り沙汰された最近話題の「NFT(非代替トークン)」や「分散型アイデンティティ」、「分散型金融(DeFi)」などは、ブロックチェーン技術を背景にしたテクノロジーです。「NFT(非代替トークン)」は著名人の参入で今年一気に注目を集め、「『過度な期待』のピーク期」に位置していますが、テクノロジー自体は数年前から存在しており、普及にかかる期間としては「2〜5年」と見積もられています。一方で「黎明期」に位置する「分散型金融(DeFi)」は普及にかかる期間は「5〜10年」と評価されています。

どちらも市場からの注目度は高いものですが、前者は加熱した注目と一定期間運用されてきた技術で、ある程度は普及できる見込みとされているのに対し、後者は既存の金融の仕組みとは異なり、規制面の議論などもテクノロジーの課題と並行して存在しているため、普及には時間がかかると予想されています。つまり、市場のニーズの高さにテクノロジーが応えられるまでには、個々のテクノロジーの事情でそのスピード・年数も異なるということです。

よって、新しいテクノロジーを企業が導入し競争力を獲得していく上で、市場の要求水準に応えられるまでテクノロジーが成熟するのはいつ頃なのかを見極め、事業の中で取り入れる道筋を立てるのが肝要です。

一つ、過去何度も世の中で話題となってきたARグラス※4を例に挙げて、市場の要求水準とテクノロジーの間にあるギャップを紹介しつつ、事業として取り組むべきタイミングの大切さをお伝えしたいと思います。

ARグラスに見る市場の期待と現在地の見立て

ARグラスと言うと、およそ10年前に発表されたGoogle Glass※5が、みなさんの想像する最も有名なARグラスではないでしょうか? 一方で多くの人々が想像したであろう理想のARグラスは、目にする世界がインターネットから得た情報で覆われ、現実が拡張された世界が視界に広がるイメージだったと思います。実際の製品はそこからはほど遠く、スマートフォンのように世の中には普及していきませんでした。その理由はさまざま挙げられますが、Hype Cycleで紹介したように世の中の期待値と実際の技術で解決できるものの間に大きな乖離があったということです。

あれから10年近くたち、2019年末にCEOティム・クックもARが次世代のプラットフォームになると発言※6しています。さらにはMeta(旧Facebook)のマーク・ザッカーバーグも2020年の初めの所信表明※7の中で、2020年代のどこかでARグラスの技術革新があると予測した発言をしていますし、今年にそうしたARグラスを見据えてかスマートグラスをRay-Banと共同で発表しています。※8また、2019年から2021年の今年にかけてARグラス的な製品も再びさまざまなものが登場するようになりました。さらにはAppleのARグラスのうわさ※9も絶えません。

先に挙げたGoogle Glassが登場した時に世の中の人々が思い描いた世界が実現できれば、次世代のスマートフォンに代わるスタンダードになっていくというのは想像に難くないです。しかし、実際のところはどうなのでしょうか? そこで人々が思い描く世界観を実現する理想のARグラスが解決すべき技術的な課題はなんなのか? これを見ていきたいと思います。

ARグラスを理解する上で必要な目の仕組み

ARグラスを理解する上で、人間の目の仕組みを理解すると技術的な難しさが理解できます。

人間が立体的に物体を見る仕組み
図2:人間が立体的に物体を見る仕組み

人間は右目と左目でそれぞれ異なる映像を見ています。両方の目で同じ物体を見た際に、右目と左目の視線が交差するまでの距離を輻輳距離と呼びます。さらにぼやけず見たいと思う焦点距離に調整されることで、見ている物体を立体的に視認できます。試しに片方の目をつぶって少し離れた場所にある物を見ると、立体的に捉えることが難しく、その距離感をつかむのは難しいはずです。

ARグラスに限らず、これはメタバースで注目を集めるVRでも同様のことが言えるのですが、人間の脳は機械的に表現されたものを見る際、現実の物体を見ている時とわずかな差でも違和感を感じ、眼精疲労や気持ち悪さにつながります。代表的なものとしては「輻輳調節矛盾」が挙げられます。人々が思い描くARグラスを実現する上では、こうした人間の生理学的な問題を解決するために、輻輳距離や焦点距離を実際に存在する物体と差がないように人間の眼球に届ける必要があり、それができなければ長時間の着用には向かないデバイスとなってしまいます。

こうした目の仕組みを理解すると、理想のARグラスに求められる技術要素とその難しさが分かってきます。ARで表現した物体を現実空間で違和感のない場所に置き、輻輳距離や焦点距離の調整を自然に行うには、右目と左目をそれぞれ正確にアイトラッキングし、合わせて現実世界の3次元的なトラッキングを正確に行いつつ、リアルタイムで演算を行いながら着用者の動きに合わせて、ARで表現した物体を右目と左目で輻輳などで矛盾を起こさないよう描画し直し続ける必要があります。これだけで世の中の人たちが想像するような理想のARグラスを単体で小型に実現するのは相当困難であることが分かります。

現在、ARグラスを開発する方針として、大別するとレンズ上でARを実現する方式と網膜に直接映像を投影する方式があります。前者は上述の輻輳調節矛盾を小型のままで完全に解決はできていません。後者は輻輳調節矛盾が発生しない方式として注目されていますが、網膜に正確に映像を照射する必要があるため、例えば、斜視のように人間の個体差への対応が大きく、眼科にかかるような細かい調整が必要なものです。

よって、現在の技術で普通の眼鏡のような小型のARグラスができたとしても、スマートフォンに送られてくるような単純なプッシュ通知や時刻、天気情報などの情報をシンプルに表示するレベルの機能で、人間の生理的な問題により長時間のAR利用が難しかったり、購入に至るまでに眼科にかかるような調整が必要なものになります。この程度の機能でさらに着用に至る障壁があるのであれば、スマートフォンやスマートウォッチで十分であり、一般消費者向けの製品として広く普及することは当面の間は考えにくいというのが現状のわれわれの見立てです。仮に現状の技術でこうしたものを実現するには、眼鏡型のデバイスよりも大型のヘッドセットのようなもののほうが、そうした技術的な課題を解決できる余地が大きいものだと言えます。

われわれ、ヤフーのような企業では多くのユーザーにさまざまな情報を提供することを目的としているため、人々が利用するデバイスとして広く普及したものに向けてサービスを提供するという事業構造上、今のARグラスを想定したサービス提供を大規模に検討するのは現段階では優先度が低いということになりますが、理想のARグラスが一般に普及する前にARオブジェクトの扱いに関するノウハウを蓄積しておくことへの投資は重要と捉えています。

また、製造業や医療の現場などでは、大型のARグラス、ヘッドセットであっても、必要な情報の視界上での提供に需要があります。5G回線を活かしたいような通信事業者であれば、ARのようなコンテンツを普及させるモチベーションがあるため、ARグラスやそこに投影するコンテンツへの投資需要もあります。そうした企業はわれわれよりもARグラスに対する優先度は高くなります。つまり、ARグラスと一言で言っても、事業のあり方次第で必要とされるタイミングも力を入れる優先度も異なるということです。

こうした新しいテクノロジーを事業に導入していく上でのタイミングと優先度の考え方について、この後に触れていこうと思います。

せっかくなのでAR(拡張現実)について、インテリジェンス活動としてどう捉えているかにもう少し言及しますと、小型のARグラス単体で理想とされるARグラスの実現に必要な計算させようとすると、現状は無理があるのはお伝えした通りです。しかし、スマートフォンと連携して計算処理をそちらに任せる形であれば、小型化はある程度、現実的なものになると思われます。こうした視点に立つと、Qualcomm社が進めているARプラットフォーム※10が目指す姿も理解しやすいかと思います。

また、ARグラス以外でAR(拡張現実)について考えると、触覚から現実を拡張するという視点で見ればスマートウォッチもARの範疇に含められますし、さまざまな製品の中で完全ワイヤレスイヤフォンも聴覚を拡張するという点でARの範疇に含まれるという議論も増えてきました。他にデバイス事業への投資や売上構成比率の推移、経営層の発言などを含めて捉えると、すべてのピースをそろえている企業が注視すべき統合的なAR(拡張現実)を実現する企業だと言えそうです。そういう視点で世にARグラスが普及するまでの時期を各種製品などから予測しています。

技術を獲得すべきタイミングと優先度

一例として、ARグラスについて挙げました。もちろん、当社が注視しているテクノロジーは非常に幅広いものがあります。そして、それらはHype CycleやARグラスの話で触れたように技術として獲得すべきタイミングや、優先度がそれぞれに異なります。それを大まかにどのように捉え、優先度を持って対応しているかを説明したいと思います。

ヤフーでは獲得すべきテクノロジーを実用、普及のタイミングを見ながら、競争優位性を獲得する上で早すぎもなく、遅すぎもない適切なタイミングで、経営陣が導入を意思決定できるようポートフォリオで各テクノロジーを見ています。

今回は説明の簡単さのため、われわれの技術獲得に向けたポートフォリオの構造を単純化し、事業内容をインターネット企業全般で見た際に、世の中で注目されているテクノロジーをピックアップしてプロットしたものを記事のために用意しました。それが図3です。

実際に当社で運用しているものはもっと細かい尺度で、プロットされるテクノロジーも事業に応じてさまざまなものになります。

技術獲得のためのポートフォリオ例
図3:技術獲得のためのポートフォリオ例

横軸は普及までにかかると予測する時間軸で、縦軸は注目しているテクノロジーが世の中で普及するかどうかの確実性で分けています。また、その確実性に応じて企業として取るべきアクションをカッコ書きしています。

普及が確実視されているテクノロジーばかりを追いかけていると、競合企業が数多く存在する競争の激しい環境での勝負となりますし、そのタイミングで着手し始めても競争優位性は確保できません。非連続な成長や他社にはない強みを獲得する上では、そのテクノロジーが世に普及するかは不透明でも、普及した際のインパクトが大きいテクノロジーにも注目しておかなければなりません。そうした視点で事業に必要とされるテクノロジーを調査し、世の中の「過度な期待」に振り回されず、その実現性を正しく評価し、適切なタイミングで投資・研究開発することが可能になるようポートフォリオを運用しています。

ポートフォリオでは、短期な時間軸に立った場合にその時点で普及が不透明な技術に位置するものへ投資するのはリスクが高く、不透明でも事業に与えるインパクトが大きいものは早い段階から長期的な評価を行い、全体としてリスクとリターンのバランスが取れた状態を目指します。

図3で言えば、左下から右上のマスにかけて埋めていくとそうしたバランスが取れている状態となります。そして、時間の経過とともにポートフォリオで右上の技術が左下へと推移していき、そのテクノロジーが競争優位性を確保できる理想的なタイミングで獲得されている状態となるよう実証実験などを踏まえ、実サービスへと適用していきます。また、各技術を定期的に評価し、芽があるのか、芽吹いてきているかを見ながら常に見直しをかけていきます。

先ほどの説明で用いたARグラスで説明すると、現在の見立ての位置から時を経て、普及が確実視され、サービスへの導入が見込まれる段階に至るまでに、ARグラスが普及した世界で必要な技術を明らかにし、そのノウハウが事前に蓄積された状態を目指します。

今回は図3の例を用いて説明しますので、プロットされている各テクノロジーについて、簡単に紹介します。なお、取り上げたテクノロジーの粒度は個々で異なりますが、今回は説明の分かりやすさを優先しています。

  • 大規模言語モデル
    Googleが2018年に発表した自然言語処理モデルBERT※11などに代表される言語モデルで、文書分類や質問応答などのさまざまなタスクでの活用が進んでいる。
  • 自己教師あり学習
    教師データを機械的に作り出すアプローチで学習させる機械学習の手法。人手によるアノテーションコストをかけずに機械的に学習データを用意できるため、2020年頃から特に注目を集めている。
  • オンデバイス推論
    スマートフォンなどのデバイスに学習済みモデルを配布し、デバイス上で推論処理を行うアプローチ。
  • オンデバイス学習
    スマートフォンなどのデバイス上で機械学習の学習処理を行うアプローチ。ユーザーのデータを中央のサーバーに送らずにユーザーのデバイス上のデータで学習を行うため、プライバシーなどに配慮することができるアプローチ。
  • Federated Learning
    中央のモデルをスマートフォンなどのデバイスに配布、デバイス上のデータで学習したモデルを中央のモデルに送付し、中央のモデルをアップデートすることを繰り返すアプローチ。元のデータをそのまま中央に送らないため、プライバシーに配慮することができるとされるアプローチ。
  • ARグラス
    上述
  • Responsible AI
    AIの公平性や説明可能性など、さまざまな領域を包含している。昨今のAIによってもたらされた結果に対する説明責任や、AI倫理の議論から注目を集めている。
  • 耐量子暗号
    量子コンピュータの誕生によって既存の暗号解読が懸念されるため、量子コンピュータが完成しても解読が困難な暗号技術の研究開発が進んでいる。
  • NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum Computer)
    量子誤り訂正が不十分でエラー率が高く、量子ビット数も少ない現在の量子コンピュータと、古典コンピュータのそれぞれが得意な計算をハイブリッドな形で組み合わせるアプローチ。
  • 汎用量子コンピュータ
    量子重ね合わせや量子もつれといった量子力学の現象を用いた量子ビットを扱うコンピュータで、従来の古典コンピュータでは実現できないほどの超並列計算が可能となる。

図3で挙げたテクノロジーの一部は、技術的なノウハウの獲得に一定の関係性があるものになっています。

例えば、「オンデバイス学習」はスマートフォンなどのデバイス上で機械学習モデルの学習処理を行うため、そこで作られたモデルの性能評価や作られるモデルのサイズなど、いくつかデバイス上で完結させることへの技術課題が存在します。そうした一定のノウハウを前提とした上で、中央で統合した学習を行う「Federated Learning」などがあります。Federated Learningではオンデバイス学習の課題に加え、各デバイスごとに異なる環境下でのオーケストレーションなど、発展的な課題が出てきます。つまり、技術獲得という面で見た場合、前提となるテクノロジーのノウハウを獲得した上でチャレンジするほうが、より素早く効率的にそうしたテクノロジーを事業で活用できる状態が構築できます。

似たようなもので「汎用量子コンピュータ」も挙げられます。昨今、量子コンピュータのニュースを見かける機会は増えましたが、残念ながら事業で十分に活用できる水準に至るまでには、相当の年数が予想されています。それにはいくつかの理由がありますが、代表的なものとしては今作られる量子ビットは非常に不安定であるというものです。現在、この量子ビットを作るためにさまざまな方式で研究開発されていますが、どの方式も1量子ビットを作ることはできても、将来必要とされる100万量子ビットを作ることができるかどうかは示されていません。そうした背景も踏まえ、汎用量子コンピュータの出現前に、限定的な用途であっても量子計算を実現しようとする量子アニーリングなどの取り組みがあります。図3ではそうしたものの1つで、量子ビット数も少ない現在の量子コンピュータを活かしたNISQについて、汎用量子コンピュータより前に位置付けてプロットしています。これらのテクノロジーは研究の進展についての理解に加え、深刻な人材不足も明らかなので、研究者の方とのコミュニケーションや将来を見越した一定の投資が手当てとしては重要と言えます。

更には、量子コンピュータが実用される前に耐量子暗号は準備しておかなければなりません。よって、NISQや汎用量子コンピュータよりも前に優先度が上がるような位置付けにポートフォリオ上では置いています。この分野ではさまざまな機関で研究開発や暗号移行の議論をしている中、NIST(米国立標準技術研究所)※12による標準化への取り組みが注目されています。この標準化の議論では2022〜2024年の間に標準案を策定する見通しで※13、提案されたさまざまな方式から有力なものを絞り込み、現在は最終選考の段階に移っています。中でも、理論的な安全性証明が示しやすく、暗号化や復号の処理性能、鍵のサイズも小さく抑えられる格子暗号方式が有力視されています。日本からもNTTが参加した研究グループが格子暗号方式で最終選考に残っています。※14

このように競争優位性を獲得する上で中長期的な目線で技術を獲得するためのポートフォリオを捉えた場合、獲得にいたるまでの段階を見据え、脅威となりうるテクノロジーに対する事前の手当てを想定した運用が求められます。

市況で急変する優先度、AI倫理の議論も添えて

新しいテクノロジーを適切なタイミングで獲得するうえで、各テクノロジーをポートフォリオにプロットし、管理するというお話をしましたが、そうしたテクノロジーが普及する確実性は、市況により急激に変化する場合があります。

市況により急激に変化する技術獲得のためのポートフォリオ例
図4:市況により急激に変化する技術獲得のためのポートフォリオ例

図4の(1)は昨今のプライバシー問題や付随する法規制、Big Techへ規制強化などを受けて、AppleやGoogleといったプラットフォーマーが、ユーザーのデバイスやブラウザー上のCookie等のデータの扱いに対して、急速に制限をかける仕様に変更していく方向へと変化しています。これまでと同じ利便性をこれまでと同じやり方でユーザーに提供することが難しくなる見込みから、「オンデバイス学習」や「Federated Learning」といったテクノロジーにも注目が集まり、世の中で普及するかどうかの可能性に変化が生じています。競争優位性を獲得する目的の他に、急変する市況に合わせる意味でも着手すべき優先度が上がり、(1)のようにポートフォリオ上での扱いを急いだ対応へと変化させる必要が出てくることがあります。

(1)と同様に(2)では、急速な世の中でのAI倫理に関する議論を受けて「Responsible AI」の優先度を見直す必要が出てきています。もともと注目されていたものですが、特に今年に入ってからのEUによる法規制を想定したAI包括規制案の提案※15の影響が大きいと言えます。結果として、急激にAI倫理面に配慮する気運が高まり、各国、各企業、主要なAIをテーマとして扱う学会等が何かしらの動きを見せています。※16

こうした急速な動きは、これまでの注目度の高さに加え、既に施行されているGDPR※17の運用が下敷きとなり、これまで以上に法規制を伴った議論が素早く進展し、各国の行政や企業活動にも影響を与える公算も高いためです。そうした注目を集めるAI倫理の議論の進展を理解するために、EUから提案されたAI包括規制案の概要を簡単に紹介しようと思います。

Regulatory framework proposal on artificial intelligence より “A risk-based approach
引用:Regulatory framework proposal on artificial intelligence より “A risk-based approach” ※15

基本的に現在のAIと呼ばれる技術の主流である機械学習は誤判定が避けられません。そこで、EUから提案された規制案では、人権の侵害や悪意のある利用を禁止する以外は、AIの誤判定の影響度の大きさに応じた4段階のリスクベースのアプローチを取っています。先に挙げた人権侵害や悪意のある用途のAIは第一分類の受容できないリスクとして禁止、第二分類のハイリスクなAI利用については、誤判定などの影響が大きいもので、AIの運用において定められた条件を守る必要があります。第三分類は限定的なリスクのあるAIとして、AIが用いられていることを利用者に知らせる義務が伴うもの。最後の第四分類はゲームで利用されるAIや迷惑メールなどを分類するためのAIなど、利用に際してのリスクが少ないものについては自主規制に委ねるというのが、おおよその内容です。

何が許され、何が許されないのかが、いまいちつかみづらいかもしれませんが、AIによる誤判定の悪影響が生命や人権に関わるものを上位に、次いで財産や社会生活に対し、回復不可能な悪影響を与えかねないものほど、規制が強くなる方向と捉えると理解しやすいかと思います。

このような議論の中で「Responsible AI」の需要がいま高まっています。

「Responsible AI」では機械学習のブラックボックスなモデルがはじき出す結果に対する手当てとして、公平性や説明可能性などの研究を含みますが、開発プロセスやデータ管理など、AIの倫理面に配慮したガバナンスも概念として包含しています。

公平性や説明可能性の研究は古くからありますが、昨今のAIブームを牽引したDeep Learningでは精度を追求した結果、モデルが複雑になり過ぎているため、高精度なAIと公平性や説明可能性はトレードオフの関係にあると言えます。そのため、研究自体は進んでいますが、世の中の要求水準に対して、完全に応えられるものはまだなく、現在の技術で可能な限り説明を試み、社会との対話の中で合意を図っていくものが主流だと言えます。そのため、ポートフォリオ上では技術的に成熟するまでの期間としては、中期と見積もってプロットしています。

他方、ガバナンスの面では実例自体はまだ少ないものの、開発プロセスやデータ管理などの人が介在して統制を図るといった形で議論が進み、フレームワークなども整理されつつあります。多くの国で議論の下敷きとなり、おそらくグローバルスタンダードと呼べるものは、OECDによるフレームワーク※18です。また、今年に入ってから主要な国においても、こうしたフレームワークがいくつか公表されています。6月末に米国政府監査院より”AI Accountability Framework”※19、日本においても7月頭に経済産業省より”AI原則実践のためのガバナンスガイドライン”※20が公表(パブリックコメント募集)されています。こうしたAI倫理に配慮したガバナンスでは、AI開発にかかる企画、データ収集、モデル生成、サービス適用など、各プロセスごとに倫理面で問題が起きていないかをチェックするようなものが大半となっています。また、モデルの性能低下や新しいAI技術の登場を想定して、人の介在を含めたアジャイルな開発プロセス、監査の仕組みを取り入れているものも多いです。

結果として、技術的な難しさはありつつも、ガバナンスの面では多くの企業が近い将来、何かしらの「Responsible AI」の取り組みが求められると予想されるため、(2)のような形で急いだ対応へと変化させる必要性が出てきます。

こうして、事業として必要だと予想されるテクノロジーを見定め、急変する市況の変化を見極め対処しながら、俯瞰的に短期、中期、長期の視点で実現可能性を評価し、適切なタイミングで獲得する意思決定の際の材料として、こうしたポートフォリオというものは役立ちます。

まとめ

この記事では、われわれ、ヤフーにおける新しいテクノロジーを獲得していくための考え方をご紹介しました。このような競争優位性の獲得を目指したポートフォリオを持つと、経営陣による技術獲得への投資や研究開発などの意思決定、合意形成が適切、かつ効率的に行えるという本来の利点の他に、他社のテクノロジーに関する発表などが、どれほど現実的なものなのか、あるいは対外的なアピールに留まっている内容なのか、そうしたものがポートフォリオを軸に素早く見極め、関係者間で共通認識とすることもでき、世の中の「過度な期待」に振り回されなくなるといった副次的な効果もあります。

こうしたポートフォリオを作り上げるために、われわれは日々、幅広い分野のアカデミックな領域の研究に着目、それを理解し、研究者やスタートアップの方々とのコミュニケーションを通じて、各テクノロジーの現在地を正確に把握しつつ、世の中の変化と事業の優先度に合わせて、経営陣と合意を取りながら、常に見立てをアップデートし続けています。

この記事をご覧の皆さまも、話題を集める技術の先端で議論されている内容を多角的に評価することで、真の意味でのテクノロジーによる地殻変動を見極めることにつながるはずです。企業によってはこのような技術獲得のためのポートフォリオに取り組むことが難しい場合があるかもしれませんが、少なくとも個々のテクノロジーへの正確な見立てを持つことで、誤った意思決定に振り回されることを防ぎ、健全なテクノロジーの発展とともに事業も成長していけるのではないでしょうか。

参考

  1. OSINT(Open Source Intelligence)
    出願特許、論文やIR情報などといった公開情報を元に、その企業が本来非公開としている戦略や注力領域を類推する合法的な手段で行う諜報活動
  2. Hype Cycle 2021年版
    https://www.gartner.co.jp/ja/newsroom/press-releases/pr-20210824
    より詳しくHype Cycleについて知りたい方は、Jackie FennとMark Raskinoの共著による「Mastering the Hype Cycle: How to Choose the Right Innovation at the Right Time」を読まれることをオススメします。
  3. S字カーブ理論
    技術や事業の進展と成熟の関係を表すもので、初期段階では時間経過と共にゆっくりと性能などが向上するが、次第にそのスピードが速まり、普及していくに従って性能向上の速度が逓減し、新たに登場する技術や事業に取って代わられる様子を示す理論
  4. ARグラス
    AR(Argument Reality:拡張現実)をレンズなどに情報を投影、あるいは、見ている景色に対して情報を重ねる形で実現する眼鏡型デバイス。ここではMR(Mixed Reality)と呼ばれるARに加えて、ARオブジェクトに人間が干渉できるものも含めます。
  5. Google Glass
    https://ja.wikipedia.org/wiki/Google_Glass
  6. ティム・クックはARが次世代プラットフォームになると発言
    https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53200090Q9A211C1MM8000
  7. 2020年のマーク・ザッカーバーグによる所信表明
    https://www.facebook.com/zuck/posts/10111311886191191
  8. 第一世代のスマートグラス「Ray-Ban Stories」が登場、一部の国で販売開始https://about.fb.com/ja/news/2021/09/introducing-ray-ban-stories-smart-glasses/
  9. AppleのARグラスの噂
    https://wired.jp/2020/06/29/apple-glass-ar-rumors/
  10. Qualcomm Advances AR Industry with the Qualcomm Snapdragon XR1 AR Smart Viewer Reference Design
    https://www.qualcomm.com/news/releases/2021/02/23/qualcomm-advances-ar-industry-qualcomm-snapdragon-xr1-ar-smart-viewer
  11. BERT: Pre-training of Deep Bidirectional Transformers for Language Understanding
    https://arxiv.org/abs/1810.04805
  12. 米国立標準技術研究所(NIST:National Institute of Standards and Technology)
    https://www.nist.gov/
  13. Post-Quantum Cryptography
    https://csrc.nist.gov/projects/post-quantum-cryptography
  14. NTTの新暗号、なるか世界標準 中国の量子暗号に対抗(日経新聞)
    https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC07CHE0X00C21A9000000/
  15. Regulatory framework proposal on artificial intelligence
    https://digital-strategy.ec.europa.eu/en/policies/regulatory-framework-ai
    本記事におけるEuropean Commissionのページからの引用は下記の指定に従い、全て(CC BY 4.0)の下、利用しています。
    https://digital-strategy.ec.europa.eu/en/pages/legal-notice#ecl-inpage-km0gezfs
  16. AI倫理に関連するいくつかの国家の動き、学会の様子などを以下に挙げます。
  17. EU一般データ保護規則(GDPR:General Data Protection Regulation)
  18. The OECD Framework for Classifying AI systems
    https://oecd.ai/en/classification
  19. AI Accountability Framework
    https://www.gao.gov/products/gao-21-519sp
  20. AI原則実践のためのガバナンスガイドライン
    https://www.meti.go.jp/press/2021/07/20210709002/20210709002.html

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鎌田 篤慎
技術戦略本部
テクノロジーインテリジェンス活動を行っています。独身。

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